Leo Ashizawaの「元気でやってるよ。」「元気でやってけよ。」

自分がやりたいことを少しでも伝えるには、自分自身の中でそれなりに土台が必要です。僕の土台はこのメッセージ。これまでお世話になった人へ。これからお世話になるであろう人へ。ロンドンで活動する役者、Leo Ashizawaからの便り。

Oblivion

Oblivion

芝居を始めた頃、台本(脚本)には撫で手型と張り手型の二種類があると教わった。

撫で手型とは、いわゆる右肩上がりで物語があがって行く手法である。観客は物語がどのように展開して行くかを一喜一憂しながら、エンディングを迎える。まぁ、好きな人に告白する日が刻一刻と近づく感じ。

一方、張り手型は、物語の始まりに衝撃的な出来事が起こり、その余韻とそれにまつわる物語の展開で観客を圧倒する。まぁ、相撲取りに思いっきりビンタされて、赤く晴れ上り、痛みがジンジン残る感じ。

もちろん、この二つのどちらかにはめ込みにくいような作品もあるけど、必ずどちらかに寄る。


舞台作品、特にクラシックになると、登場人物は物語を紡ぐための駒である場合がほとんだ。
その駒にそれぞれの人生がある。

ギリシア悲劇なんて、わざわざメッセンジャーという、
ナレーションに生命を吹き込んだキャラクターまで存在する。
(すんごい責任重大)

だから、その作品の中で、キャラクターどういう役割を果たすのか、
台詞はどういう役割を果たすのかということを見極めなければいけない。
理解しなければいけない。
感じなければいけない。

ただ自分のキャラクターを作り上げて、台詞を覚えて、稽古すりゃーいってもんじゃない。
(これだけでも結構大変なことなんだけどね。)

ようするに、自分という人間が、この地球でどういう役割を果たすのか。だからこの社会で何をするのか。という話し出せば、テーマが重すぎて、界王拳10倍にも耐える事ができるような身体になっちゃうようなことを、役者たちは作品にとりかかるときにはやっているのだ(えっへん。すごいだろ!)

映像作品ももちろん、同じ事がいえるのだけど、知らないところで監督が編集するので、役者はお皿の上に美味しそうな色とりどりの料理として、綺麗に自分を並べて美味しく食べてもらうことに心身を注ぐ。

自分と社会と地球よりも、作品というレシピに自分がどれだけ、繊細かつ豪快な調味料を
持っているか、自分の汗という塩の結晶は、果たして伯方の塩より旨いのかという
ノイローゼになりそうな細かい自問を、役者たちは作品にとりかかるときにはやっているのだ
(えっへ、えっへん、すっごいだろ!)


・・・


調子にのりました。すみませんでした。


…まぁ、えーっと、ですね。あっ、そう。パワーオブ・テンってみたことある?

興味ある人はググってみてね。あの気持ち良さそうに日向ぼっこしてるおっさんを役者だとすると、舞台作品は宇宙にドーンと上がって自分を観る作業で、映像作品は原子までキュゥイーンと小さくなって自分をみる作業をやってるってことなんですね、ハイ。

こうやって、作品に向かいあい、と同時に役と向き合うという
一番大変な作業があるわけですね。

と、まー、エラそうに語ってますが、役者それぞれ違うと思うので
これはあくまで個人的見解にのっとったお話ということで。



話を戻すと、張り手型であっても撫で手型であっても、お話として成立するための
どうしても越えなければいけない偏差値というものがあり、それを越えると人は「面白い」と感じる。

張り手型だと、最初に思いっきり高くジャンプして、その着地点は最低限、2階じゃないと、
撫で手型だと、羽ばたきだして、飛んで飛んで、その着地点は最低限、2階じゃないと
1階から観ているお客さんを満足させることができない。


何かを創造し、人に場を設けて観てもらう以上、これは逃れられない作り手の責任になってきます。
その責任が、驚異的な攻撃力で作り手の魂を削ってきやがります。

作品を見せるとき、作り手は生まれたての子鹿のように、心の中は
ガクガクブルブル震えています。余裕の表情をみせながら。

観客は共感、裏切り、説得で作品の幅を感じる。
作り手はそれを旨く利用する。利用し、成立するのは
大前提として、人間であることを出発点としているからだ。


数千と新たに日々生み落とされる同じ個体の中に、突然変異のごとくその他と別の行動を取り出すものがいる。
突然変異とはいえその個体の別行動は、その個体のみで完結しない。なぜか?

それは、深層心理の源泉でつながった同一種の人間は何かしらの手段で、
別の行動を取り出したその個体の情報を共有するからである。

人は個を尊重し、「世界で一つだけの花」でありたいのに、
「世界で一つだけの花」であるために、他の花を必要とする。


比較する事で、世界で一つになるために。
そしてたどり着く手段として共有を望む。


現代社会では表層の共有手段として、ネット社会が存在している。


深層心理の源泉からネット社会まで。
始まりと終わりはいつも始まりを迎え、永遠のループを織りなす。


『大きな木がはっている根が深層心理の源泉であり、伸びる幹は人が個でありたい意識であり、結局のところ緑生い茂る葉の中で落ち着きを感じ、自分は周りより綺麗な花を咲かせたい』


相撲取りに思いっきりビンタされてジンジンするホッペをさすりながら、好きな人に告白する明日までに腫れがひかなかったらどうしようと一喜一憂するその感情を、FacebookやTwitterに書き込みたいのだ。


忘却の果てには、膨大な記憶と情報があなたを待っている。

映画の草子、徒然と。

【Oblivion(オブリビオン)】
監督:ジョセフ・コシンスキー
出演:トム・クルーズ/オルガ・キュリレンコ/モーガン・フリーマン






「悲しい別れでも、嫌な別れでも、そんなことはどうだっていいんだ。どこかを去ってゆくときは、今、自分は去ってゆくんだってことを、はっきり意識して去りたいんだよ。そうでなけりゃ、ますます嫌な感じがするんだよ。」
Catcher in the Rye



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今日は、なんか、すみません。。。

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