Leo Ashizawaの「元気でやってるよ。」「元気でやってけよ。」

自分がやりたいことを少しでも伝えるには、自分自身の中でそれなりに土台が必要です。僕の土台はこのメッセージ。これまでお世話になった人へ。これからお世話になるであろう人へ。ロンドンで活動する役者、Leo Ashizawaからの便り。

『男のかばん展』と【都会の遊牧民たち。】

男のかばん展

僕は二十歳くらいの頃から自分が気に入った言葉や、思いついたアイデアから自分の思想、物事の説明、実際に身体を動かさないと成立しないようなトレーニング手法まで、各種雑多なものをメモとして寄せ集めた手帳を持ち歩いている。そこには、自分の好きな本の一節が抜粋したものもメモとして書いてある。


僕は飲み会に向かう電車に揺られながら、抜粋された色んな本の一節をむさぼっていた。
その多くが純文学からの一節だ。


夏時間が終わったイギリスの夕方は5時ですでに真っ暗だ。

日本でいう夜景というほどの景色ではないが、蛍光灯やネオンの明かりが少ないロンドンの夜景はそれなりに良い。特にテムズ川にかかる橋を渡る時などは、慣れてはいても、全身の毛が逆立つようなゾクゾク感を受けることがある。


今日は風が普段より幾分か強く吹いている。


僕は窓に映った自分の姿をみて、口ずさんでみた。

「純文学作品が好きだ。」

窓に映った自分の唇はその言葉を発しているものの、僕自身が発しているようには感じられなかった。

知り合いに純文学作品とその他の違いを聞くと、文章の書き表し方とその内容が、それ以外のものとは違うのだと聞いた。

ジャンルわけは苦手だ。

僕は純文学に漂う香りが好きだ。キツイ匂いではないものの、鼻孔を通り、肺に下層部で朝陽に照らされた霧のようにかすかに残る。

昔、ある画家が言った
「レモンは誰でも描くことができる。ただ、レモンの味を絵で表現できる事で初めて、画家になれる。」
という表現を思い出した。


ある種のアートと一括りにされてしまう’事象’には、そういった感覚はつきものだと思う、それに付随する儀式も。




当時、徐々に日本でも著名度が上がって来たfacebook、日本の友達とのやりとりの頻度も増えることによって、使用頻度も増えてきた。それに比例するかのように、複雑な思いと、ソーシャルネットワークに対する嫌悪感が浮かんで来た。

自分がひそかに応援していたインディーズのバンドがいきなり有名になって、今まで見向きもしなかった人が、ファンになったことに対する嫉妬をはらんだような、陳腐な嫌悪感が生まれた始めた頃、時を同じく、friend suggestionでエイジさんの名前がトップに上がって来た。
僕はエイジさんとは、何故か(あえて)Facebook上では友達でなかったからだ。




毎回、Facebookにログオンするたびに何度も、何度も。




あまり仲良くはなかった知り合いが、エイジさんにフレンド・リクエストを出し、返事がまったくないのにヤキモキしているかもしれない。


自分が作ったはずのプロファイルは自分の知らないところで、まるで自分の意志を持っているかのように一人歩きする。






エイジさんの存在はすでにこの世にはないのに。





この複雑な気持ちを還元する作業のようにソーシャルネットワークにまつわる一人芝居を書き綴った。
ただ、それは一つとして、まだ作品の形にしあがっていない。いずれ形になるんだろうけど。


今回、日本で「都会の遊牧民たち」というパフォーマンスに関わるにあたって、僕の中のエイジさんを探る作業が必要だ。

さきほど、メンションした、いわゆる付随する儀式というやつだ。

対談にはインタビューワー(?)司会進行的役割の人が仲介に入ることがある。
この人の腕によって、対談の内容が良いものになったり悪いものになったりするものだ。

僕が自分の中にいるエイジさんと対談するには、この仲介的役割を果たす事象が必要となる。


その簡単な入り口として、今はもう使っていないメールアドレスに数年振りにアクセスしてエイジさんとの会話を振り返ってみた。


そのメールアドレスに送られて来たメールは自動的に現在使用しているメールアドレスに転送されてくる。
そんな、便利で、しかし、過去のやりとりを過ぎ去ったアーカイブ、書簡として扱うシステムを疑うこともなかった。初めて使い始めたそのメールアドレスを携帯電話のアドレスが変わったとしても、一生使っていくアドレスだから、皆さん宜しくと年賀状に添えたことを思い出した。今はもう使っていない(もちろん送られて来たメールは今のメールアドレスに転送されている)。



もう、10年以上前になる。なんと無責任な約束だ。



人は人生のうちで、あらゆる、いや、いろんな、約束をする。その大半は無責任な約束だ。もちろん、その約束を交わす時には、無責任だとは微塵もおもわない。


それが時をえて、あたかも、利便上、無責任ではなくなっていく、ように思う。

本来、責任とは無責任だ。真に、生涯かけて全うできる責任など、人がかわすことができるのだろうか、僕は「否」と言うだろう。

なぜなら、僕には責任が自分にのしかかる重さと、他人に暗黙でおしかかる重さを考えるとどうしても、責任は無責任で自己完結だと思ってしまうからだ。


責任感の方がいい。期待と見返りのない献身が人を成長させ、平和に導く。


これに関して人と、言い争う気はない。
人にはそれぞれ、責任に対する価値観があるのだろう。



エイジさんとの過去の書簡(メールという言葉を使うにはあまりにも僕たちは用件のやりとりをしていない)が少なすぎることに驚いた反面、ほとんどの思い出や出来事は文章の中で存在しない事に嬉しさを覚えた。ただ、その書簡の始まりは、メールで始まり、最後は顔を合わせた会話で終わっているのだ。その始まりから最後までの期間は、自分が思っていた以上に、圧倒的には短かった。


また、その書簡の中でのやりとりの多くのことを、自分があまりにも覚えていないという事実に驚いた。


エイジさんからもらったとても大切だったであろう、言葉を思い出せないのだ。


僕の送信内容に「エイジさんから○○○と言ってもらった事が涙がでるくらい嬉しかった」というお礼メールがあった。
それくらい嬉しかった出来事を僕は覚えていない。


この「○○○」は本当に、かけがいのない言葉だ。



何とふがいない弟子だろう。


ただ、僕はおそらく、思い出さないように削除してしまっている出来事もたくさんあるその断片に気がついた。ようやく、気がついた。


だが、記憶を保管するハードドライブは脳みそだけではない。その他の隠されたハードドライブに刻み込まれていることにも気がつく。

脳はコンピューターのハードドライブのように正確で綿密で膨大な容量を有する。ただし、コンピューターと違い、僕らの指示を待たず、色んなものを好き勝手にアーカイブにしまいこむ。

理由は様々だ。いったんこのアーカイブにしまいこまれると取り出すことがなかなか難しい。境目が見えない硬くほつれてしまった毛糸でくくられたアーカイブの箱はさらに、どこか記憶の彼方に丁寧にしまいこまれる。


しかし、大変だけど行動を伴って思い出そうとすると、その箱がどこにしまいこまれたのかがわかり、さらに一生懸命、丁寧に、根気よく思い出そうとすると、その箱をくくっている毛糸をどこから解せばいいのかがわかってくるのだ。えてして、そういう箱に入っている情報は大切なものであることが多い。





飲み会からの帰りの電車の中で僕にとって、それは少し酔った僕が、電車が揺れているのか、酔った自身が揺れているのか、または心が揺れているのかを明確に理解するだけの情報を与えてくれた。



最寄り駅から、大きな通りを渡り、大きなDIYショップを横切り、テムズ川に流れ込む小さな川にかかるモダンな橋を渡りきって自宅に着く。


モダンな橋の脇には、小道がある。その小道は1つの小川が2本に分岐し、また1本に戻りテムズ川に流れ込んでいる三角州のような桟橋に続いている。大木のそばに数個のベンチがおいてあり、この辺りの人の犬の散歩スポットか、デートスポットになっている。テムズ川は干満のある川だ。干潮と満潮では水かさが5,6メートルは容易に変わる。この小川も同じように干満に左右される。


満潮の場合、水面に浮かぶ水鳥、街頭の明かり。とても美しい。
干潮の場合、沈没し、放棄されたボート、自転車、とても・・・都会の川らしい。


普段は特に夜は見向きもしないこの桟橋、でも今日は、雨で濡れ滑りやすくなったモダンな木造の橋の手前を脇にそれ、三角州の桟橋の突端まで足を運んでみた。特に何かがあるわけではない。
5匹のカルガモがちょうどテムズ川に背を向け草をはんでいる。これでもかというほどの干潮だ。彼らの後ろには大きく広がったテムズ川とその背後の建物が裸電球の優しくも暖かい橙色の明かりをともしている。


彼らは、普段は潮の満ち引きで閉じているゲートが開いていても、自由で広大に広がるテムズ川のゲートに、その大海’川’に、興味がないのだ。



僕は、最近喫煙本数のへった巻きたばこを手際よく巻きながらふと、思い出した。

さっき飲んでいた店から出て、たばこを吸っていた時に、道行く人に火を貸してほしいと聞かれた。快く貸したジッポライターは残念ながらオイル切れで火がつかなかったのだ。ちょうどさっきの僕のたばこが最後の’ともしび’となったのだった。スペアのライターは持ち合わせていないし、周りに人はいない。



しかしすこし時間が経つと、ジッポライターは火がつくこともある。
それに、こういう状況では、なんだかんだで、火がつくものだ。



と、思いながら巻きタバコを巻ききり、火をつけようとした。




何度、ジッポを試してもまったく火がつくことはなかった。




どちらかというと、この結果が純文学なのだ。そのような作家が表現すると。




現実は、自分の思うようにはいかない。
いかないからこそ、そこに感情と思考の隙間が生まれるのだ。




純文学には文章の行間にそんな雰囲気が漂う。
そして、そういった素晴らしい作家さんたちは僕がここで書くブログのように行間をスペースでコントロールする必要もない。美しい文章からその雰囲気が漂うからだ。



僕は、今までの人生で始めて、本(純文学)というものが自分にとってどのようなものなのかがよく理解できた。
(僕は何をするでも何を感じるでも人より遅い。)


人通りの無い道を歩くわずかな人たちの顔がまったく違ってみえた。





そして、遠くからエイジさんが、声が聞こえた。







「お前、やっとかよ。」







色んな違ったものが角度を変え、思考をひとひねりし、ゆっくりとだけど、かすかに両手を伸ばし、しっかり自分のとなりのものと手をつなごうとしている。



儀式は時間の流れと関わらず進行する。



『男のかばん展』"VALISE" A MAN'S LIFE 〜彼らによりそったかばんたち〜
パフォーマンス【都会の遊牧民たち。】11月12日、13日が本番です。


頑張ってきたいと思います。


もっと深く、さらに深く、limboの彼方まで。



皆さんのご都合が合えば、是非お越し下さいませ。
東京でお会いできれば嬉しいです。

詳細はこちらから。

パフォーマンス都会の遊牧民たち


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