Leo Ashizawaの「元気でやってるよ。」「元気でやってけよ。」

自分がやりたいことを少しでも伝えるには、自分自身の中でそれなりに土台が必要です。僕の土台はこのメッセージ。これまでお世話になった人へ。これからお世話になるであろう人へ。ロンドンで活動する役者、Leo Ashizawaからの便り。

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ねぇ、君。

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63年。永井隆博士が永眠してから今日5月1日までに過ぎ去った年月だ。

3は昔から僕の大好きな数字だ。6は僕の大切な人の大好きな数字だ。
永井隆さんを題材にした英の長編映画『All That Remains』の仕事が決まったのが僕が33歳のとき。

僕の好きな数字のゾロ目だ。

そして、今年僕はもう36歳になる。

僕の好きな数字、僕の大切な人の好きな数字、そして永井さんが亡くなってから過ぎ去った年月を並び替えた数字だ。

個人主義は蔓延し、権利は膨張し、あたかも人は人それぞれ個人を尊重し生きることがとても大切だという風潮がある。もちろんそれはある一定のレベルで大切なことだ。それは社会の流れと教育によって僕たちはそう生きることでしか、自身を認識できないからだ。そこがなくなると、足下に大きな落とし穴ができ、奈落の底に落とされる恐怖感を味わってしまう。

しかし、それは単に社会と教育の風潮にある。

本来は僕たちは管楽器なのだ。自然と生命の息吹が通り過ぎ、管楽器を通り音を奏でる。何も誰かに一生懸命吹いてもらう必要なない。たいていのケースは自身で喉から血がでるほど一生懸命吹きつづけているのだけれど。

そもそも存在する大きな流れが通り過ぎる時に奏でられる管楽器なのだ。

管楽器はそうして流動するどこからからのエネルギーを通り抜けさせる。そのエネルギーはまたどこかを通りどこかへ行く。長い年月をかけ、それは大きな集合体、ストリームとなって数次元をゆっくりと確実にながれる。それがまた分散し小さな流れとなり数々の管楽器を奏でる。


その音は美しい。

とても美しい。

ただ、それが美しいのは、管楽器が美しいからではない。

管楽器が純粋に、素直にその流れを受け流すからだ。

薄汚れたもの、さびついたもの、ピカピカにきれなもの、少し壊れたもの、それぞれが美しいメロディーを奏でる、ストリームを受け流しさえすれば。

多くの僕らはそのストリームを知らない、そこにあるにもかかわらず。
管楽器は自分で何とか奏でるものだと思っている。だからいつまでたっても美しい音色を奏でることはできない。


ねぇ、君。


人はこのストリームの前ではとても静かで平和だ。そこにあるものを受け流せば勝手に美しい音色を奏でるんだから。

一生懸命自身で吹き続け音を奏でようとすることで、手段が生まれ、競争が生まれ、闘争が生まれ、利益が生まれるから、極論は戦争が生まれる。


ねぇ、君。


63年前、生きを引き取る前に永井隆さんは心から喜んでいらっしゃった。

「日本は憲法で戦争を放棄した。」

平和を積極的に祈る方法は武器をもたないことだ。


その頃から少しずつ長い年月をかけていろんなことがズレて来ている。


「でも、実際に日本で戦争は起こるだろうか?」


「起こるだろうか?」とは地震、月食、噴火、台風のような自然現象について用いる言葉である。人間の意志では、どうにもならない場合のことだ。ところが戦争は人間がやり出す騒ぎである。やるかやらぬかは人間が決めるのだ。



ねぇ、君。


管楽器は奏でられるのだ。奏でるのではなくて。

そうすると、一生懸命、喉から血が出るほど、自我の限り歌いきった歌が終わったとしても、まだメロディーは鳴り響いているのだ。有名な作家の言葉を借りると。



今年は終戦69年目。70年という節目を迎える準備を始める一年でもある。


色んなものが少しずつ形をかえ、そしてねじれながらもつながっていく。




ねぇ、君。




瞼がいたくなるほど一生懸命目をつぶってゆっくり生きを吸い込み、一気にはきながら両目をあけてごらん。
その瞬間に感じるふんわりとしたやわらかさ。それがそもそもそこにあるストリームなんだから。

僕がそこに生きていて、君がここに生きている。


3は僕が大好きな数字だ。6は僕の大切な人が大好きな数字だ。

そんな些細なことをたぐりよせることから、世界を紡ぐ糸につながる。




ねぇ。君。

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