Leo Ashizawaの「元気でやってるよ。」「元気でやってけよ。」

自分がやりたいことを少しでも伝えるには、自分自身の中でそれなりに土台が必要です。僕の土台はこのメッセージ。これまでお世話になった人へ。これからお世話になるであろう人へ。ロンドンで活動する役者、Leo Ashizawaからの便り。

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陸に立つことと海に浮かぶこと

みなさん、こんばんは。葦沢リオです。

お元気ですか?

本題に入る前に天気の話をするのは、いかにもイギリスにどっぷり浸かった生活とその会話に慣れてしまった輩、丸出しですね。

今日で8月も終わり。8月が終わると、もちろん1年の3分の2が終わったことになるんだけど、それ以上に色んなものが過ぎ去ったように感じる。ロンドンでは3週間ほど前に、季節としての夏は終わった。1日、2日ほど30度近くまで気温が上がる日があったけれど、それ以外はもう最高気温20度を越える日は、あんまりなかった。

地元民は太陽を恋しく思うから雨に嘆くけど、僕は太陽よりも気温に嘆く。晴れで清々しい気候でもやっぱり夏には夏らしい気温が望ましい。うちのベランダのミニトマトも実り具合が悪い。あまり暖かくならなかったからな。

イギリスで過去数十年で一番暑い日と言われた6月下旬の1日、イギリスではアスファルトは35度を越える気温が続くと、溶けてしまうらしい。とてもイギリスらしい。35度を越えるとアスファルトが溶けて、2、3cmの積雪で飛行機と交通機関が麻痺する。

その過去数十年で一番暑かった日、僕は真っ黒のコートを着て、街中を歩くシーンを撮影をしていた。

眉毛は、額から目に流れこもうとする汗から守ってくれているんだと、脇からとめどなく流れる汗を感じながら思った。腋毛って何してるんだって。それに、これだけ暑くて、蝉の鳴き声が一切しないことにも、イギリスに慣れきった僕の身体に新鮮な感覚をもたらしてくれた。


ここでも8月は、日本人にとってとても特別な一月であることを話したことがあると思う。今でもその気持ちは変わらない。ただ、色んな国のニュースを見ていると、この8月を「メディア」としてとらえ方が違う。おそらく、「メディア」はそのご時世と今それぞれの国をどんな方向性に向かわせたいのかを、「メディア」というプラットフォームから見出しとして取り扱っているんだと思う。時にそれは、政府に沿うこともあればそうでないこともある(残念ながら概ね前者)。

メディアっていう言葉。僕も初めて知った時には驚いたけれど、これは、日本語で直訳すると「媒体」の複数形。単数形はMedium、そう真ん中的な意味で日本でも使われている、ミディアム。この複数形がメディア。

単数形の媒体としてのミディアム、その複数形の媒体たちとしてのメディア。

つまり、メディアは紛れもなく、媒体となるものの総体を表している言葉である、特にこの現代における一番大きな媒体として。





今週末は、クリスマスまでもうやってこない最後の祝日が重なった週末、バンクホリデーウィークエンド。

知り合いが声をかけてくれたので、ロンドンから車で1時間半ほどの海辺の町、ブライトンまで釣りにでた。

日本では、鯖やアジを(メインはアジ)釣る時は、サビキというキラキラ光るエビを模したような疑似餌に針がついたルアーを使う。さらに、お守りに小さなカゴをつけ、その中にオキアミを入れ、底まで落とした後に、竿をしゃくることで、オキアミをばら撒き、群がる魚が疑似餌にかかるという仕掛けだ。

イギリスでは一般的にこの疑似餌を落とし込みしゃくるだけの仕掛け。なかなか大雑把だ。陸っぱりから釣る時はこの疑似餌に天秤ばりの大きな重りをつけて投げる。(天秤は、カレイやヒラメなどの底物を陸っぱりから釣る時に使う重り)

人生で数少ない船からの釣り。船酔いの激しい僕はずっとこの船釣りをさけてきたけれど、今回は他に方法がないため(諸事情により)、酔い止めを飲んで望んだ。

船には僕ら4人と、両親姉弟の4人家族、合計8人。不思議だけれど、全員日本人だ。なんて確率だ。

波止場から15分くらい沖に出る。遠くに例のセブンシスターズも見える綺麗な景色だ。天候には恵まれないものの、雨は降っていないし、べた凪とは言わないまでも風はない。若い船長さんに簡単な仕掛けと釣り方の説明を受け、各々が小船の各所に散らばり、底をめがけて疑似餌と針、重りのついた仕掛けを落とし、しゃくり始める。数分経つと、姉の竿に、鯖がかかる。

僕は棚(深さのレベル)を調べながら慎重に釣る。保守性はよくない出発だ。とにかく、彼女はどんどん釣る。弟くんの竿にも自分で上げれないほど結構な数の鯖がかかる。鯖はよく引くから、船で借りることができる大雑把な竿と仕掛けでも力が無いと大変だ。

姉、弟、姉、弟、弟、姉の順でどんどん彼らは釣る。

僕ら4人で一番最初に釣り上げたのは僕だ。それから友達の夫婦の旦那や僕の相方、M氏にも釣果が出る。

それでもこの姉と弟は釣る釣る。大きな鯖から小さな鯖までどんどん釣る。

大人気なく(僕は基本的に大人気ない)、この二人の釣果に嫉妬する。よく言うけれど、魚は竿につく。その場所を無理矢理奪ったところで、釣れるもんではない。パチンコとは話が違うのだ。


この姉と弟はもう入れ食い状態でたくさん釣る。

これでいいはずの僕の心は「おっ、またきたね。きてるきてる」と言いつつも爽快なものではない。

この100%、他人を喜んで上げることのでき無い僕のちっちゃーい心がベースとしては極論、社会の負を生む。

もちろん、僕の連れ他の3人より釣りだけなだけに、思い入れが違うのはおいておいたとしても、よろしく無い感情だ。


この小船は国だ。

僕ら8人は国民だ。

そこに小さな町がある。僕たちと一家。僕ら2コミュニティーは一つの場所をシェアしているのだ。もちろん、みんなで釣った魚を分ける必要は無いけれど、海という壮大な懐で、何匹釣れようが、釣れまいがそこには失うものも無い(プライドはおいておけ)。

にもかかわらず、こんな感情が生まれる。

「何匹釣れるか競争しようぜ」

この釣りにおけるプラットフォームが出港の前にできあがる。

「運も実力のうち。」

これがミディアムの複数形、メディアとして機能する。

自分で言った言葉に自分が翻弄される。・・・翻弄された。

釣ったあとはお互いを称え合う。釣った魚を話し合う。結果として僕の釣果は悪くなかったけれど、これが坊主だったらどうだろう。僕の身の内に巣食う彼は、僕にどんな感情を起こさせたろう。


あぁ、世界の縮図。大海原に小船がポカンと浮かんでいる。空と海の地平線は一方行では交わるほど、広くそして、辛辣だ。


僕は、自分で口にしたミディアム(ここでは単数形のはずだ)に翻弄される、自分のちっぽけなプライドで。結果的に僕だけが鯖ではない魚を釣った。

まず、船に乗る前にみんなが払った乗船料は、同じだ。これは釣果に関係はない。竿と仕掛けは自分のものではない。同じ船で同じ場所で釣った魚は自分の物というルールもない。

「Finders Keepers」

「見つけた人がもっておく人」

クリストファー・ノーランのバットマンシリーズで時折、フラッシュバックする幼心のブルースウェインとレイチェルのシーンだ。


ただ、この船の中にもある種のコモンセンスが発揮される。望む望まないかかわらず。ただ、争いごとにならない理由は、ラッキーなことに、船に乗った人たちが、陸のその地域でも常識を共有しているという点にある。これは、ものっすごく当たり前のようで、当たり前でないことだ。


コモンセンス、共通認識・意識は、想像力のルーツのようなものだ。いわゆる当たり前としてその社会に君臨しているルールだ。暗黙の場合もあるし、口に出される場合もある。

これは、ある特定の時期と場所で、想像力が駆使され、人がその社会で一番生きやすい手段を、人為的に体系化したもの、もしくは自然発生的に体系化されたものだけれど、普段、一般的にこのルールに浸かって生きることに想像力を必要としない。使用される想像力は数学の方程式の応用に似ている。

ただ、このルールは、乱暴なくらい地域と世代によって異なる。だから難しい。


「正義は世代を越えない」


ある漫画の名言だ。これはとても正しい。


とはいえ、平和や愛など、世代を越えても、そしてその内容が少なからず変わっていくにしろ、同じように地域と世代を越えて永遠に用いられていく言葉も存在する。


だからこそ、大切なことは、その移り変わる世界の中で、止まっているように「みえる」言葉の意味を探ることでもある。

平和はどういう意味なのか。戦争放棄はどういう意味なのか。日本はどういう意味なのか。イギリスはどういう意味なのか。


船上での釣りのちーーーーっちゃい僕の感情にもその意味と背景がある。果たして何がそれを生むのか。なぜそのように僕は思考したのか。そしてそれが何を僕にもたらしたのか。


何かに賛成し、何かに反対するためには、しっかりと何かの上に立ってなきゃいけない。

いつ波に流されるかわからない木片を自分で勝手に海に浮かべて、そこから声を発しても仕方ない。

何かをどこかに伝えるための言葉を発したいのならば、しっかりと海に浮かぶ船を自分で作って、その上で言葉を発した方が良い。長く話せるし、たとえ大きな波が来たとしても沈没することなく、海に浮かぶことができる。


社会で生きることで僕らは陸地に足をしっかりつけ、言葉を発言し、時には大きな家のドアの入り口をあけて、中からこれ見よがしに言いたいことを言ったりしているけれど、忘れてはいけないことは僕には陸地はないということだ。

永久不変に立つことができる土台は存在しない。正確に言うと、永久不変に見えるこの土台も生物レベルでいうと、成立しない。

ただし、人間としては限りなく、陸地に近い浮島を見つけることは可能であり、僕らはそれをすでに見つけている。そして、多くの人間は気づきもせず、そこに立っている。ただ、なぜか、自分の言葉を発する時はその陸地からではなく、自分で木片だったり、カヌーだったり、船だったりを海に浮かべてわざわざそこから自分の好きな言葉を発する。


それは、このコミュニティーだったり、社会だったり、そうメディアだったりに、そそのかされて、海に出ることを促されるからだ。そんなことは必要ないにもかかわらず。



僕がもし、陸っぱりから、鯖を釣っていたとしたら、「運も実力のうち」と言っていたとしても、僕にあのような感情は生まれなかったはずだ。

こんなに穴だらけで、発言を棚にあげまくっている僕だとしても。



人の手には、5本の指がある。このそれぞれの指は、それぞれの能力を僕らは普段ちゃんと理解していない。例えば、小指がないと、握力がなくなり片手で物をしっかりと握れなくなる。それぞれの指にしっかりとした能力がある。

足の指も5本ある。僕は知らないが、それぞれにちゃんと能力はあるんだろう。


でもさ、それよりも一番大切な、しっかり「立つ」ということを、僕たちはどういうことなのかしっかり見つめ直すべきなんだろう。


僕らは陸にいるんだから。



僕は元気でやってるよ。

みんな元気でやってけよ。


釣りブライトンで。

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