Leo Ashizawaの「元気でやってるよ。」「元気でやってけよ。」

自分がやりたいことを少しでも伝えるには、自分自身の中でそれなりに土台が必要です。僕の土台はこのメッセージ。これまでお世話になった人へ。これからお世話になるであろう人へ。ロンドンで活動する役者、Leo Ashizawaからの便り。

物語、ドラスティックではないけれど。

ブログ一生懸命書きます



なんとまぁ、、、。という言い訳くらいでしか、今回のブログを始めることができません。



す、す、す、ずびばぜん”。


や、や、や、じゃい”ばじだ。


10周年記念で調子に乗って、毎月更新を約束したその翌月から、「更新なしとは!」と思った方もいらっしゃるでしょうか。ていうか、そんなに気にしてないって?ははーん、でしょう。でしょう。そんなもんでしょう。

なんて、失礼なことを言いつつも、葦沢リオは元気でやっております。3月の更新をすっ飛ばしてしまったことを謝るのは、この辺までにして、またいつものように、長いブログを書きたいと思います。みなさん、お元気ですか?



今年はとてもユニークです。おそらく僕がイギリスにやってきてから一番ユニークな一年なんじゃないかと思います。
もちろん、これはとても主観的なことだし、個人的なことなので共有するのは難しいと思うけれど、・・・ていうようなことを思いつつも、うん、客観的にもユニークな年かもしれないと思った。


2017年という一年は、世界の動向も前後数年の中でもおそらく目立つ一年になるんじゃないかと思う。


例えば、100年後くらいの世界。白いパネルに四方を囲まれた無機質な部屋がある。蛍光灯の青白い明かりがついた瞬間に10代と思われる男女20名が突然、椅子に座った状態で現れる。それぞれが驚いた様子もなく「あぁ。」だったり、「お前さー」だったり、「あんたって」なんて、あたかも今までの会話の続きをしているようだ。

無機質で音一つ無かった部屋がとても騒がしく有機的になる。男女の雑談声、時折奇声に似た甲高い音を奏でるいわゆる女子、そんな風に笑うと舌が喉の奥で詰まってしまうよ、と言いたくなるような笑声、それから椅子をひく音と電子音が部屋中に広がる。

突然、さらに大きな電子音と共に、中年の男性が一人、20名ほどの前に現れる。その瞬間、示し合わせたように、部屋に沈黙が訪れる。聞こえるのは、少し小さくなった電子音だけだ。しっかりと耳を済まさない限り気にもならないような一定音。

男性が話し出す。

「よし、今日はヨーロッパにとって大きな岐路になった2017年から始めようか。」

「蓋をいなす、政治家たち。はい、言ってみろ。」

男女20名がオウムのように男性の言葉を繰り返す。

「フたヲイナす、政治家たち。」

よし、いいぞ。男性は続ける。

「2た017す、政治家たち。」

「よーし、覚えろよー、受験に出るぞー。」



いや、100年後に受験なんてあって欲しくない。




南アフリカから帰ってきてからというもの、まず生活スタイルが変わった。何かがドラスティカリーに変わったというわけじゃないけど、自分が費やす時間というもの、それから自分にとって必要であるものと必要でないものの取捨選択、それに対する投資、それらはすべて、すでに自分の中にあったものだけど、自分の生きる社会と世界に反映する勇気がなかったが故に、引き出しの中にしまいこまれていたものだ。

一番上の引き出しだったにも関わらず、常に鍵をかけておき、その鍵を小さな小箱にしまいこみ、さらにその小箱に鍵をかけ、その鍵を別の引き出しにしまっておく、さらにその鍵を別の箱に・・・。そうやって何重にも保険をかけておき、机に座った時に無意識に開けることがないようにしていたのだ。


大切なものは、時に自分をデリカシーなく傷つけることがある。それを意図的に避けることも非常に大切だ。


定期的に僕は、一番上の引き出しに入っているものを眺めようとする。眺めることなんでできないことを知りながら。眺めようと引き出しをあけた瞬間にその中に入っているものは、僕を取り込んでしまうことを知りながら。

それでも、結果を知りながらも、一番上の引き出しを開けようとする行為そのものを目的としながら、一つずつ鍵をあけ、小箱を取り出し、引き出しをあけ、小箱を取り出すという作業を丁寧に繰り返し、それぞれの引き出しを開けるたびに、そこに封印されている自分の一部と向き合う。

マトリョーシカだって、それぞれ少しは違う表情をしているはずだ。それに引き換え、僕の小箱は見た目はまったく同じだ。ただ、それに鍵をかけたあの時に、それぞれ込めた異なる想いが、開ける度に仄かに香る。

そして思う。マトリョーシカは、『本当にそれぞれが違う表情をしているのか』それとも『マトリョーシカをみている自分がそれぞれ違う表情をしているのか』

そんなことを考えながら、小箱を開け続け、いつだって最後の一つの小箱を開け、鍵を取り出すと、そこで力尽きる。もう一歩だとわかっていながら(厳密に言うともう一手だ。でも実際に物理的に手を使って開けるわけじゃないからどうでもいいか。)、最後の小箱から取り出した鍵を一番上の引き出しの鍵穴に差し込み、そのまま僕は眠りにつく。そして起きた時には、すべての鍵と小箱がもと通りに、今までと寸分たがわず、それぞれの引き出しに整頓されている。

僕はため息をつく。ただ、そのため息の大きさとベクトルは、結局のところ『なぜ、一番上の引き出しを開けようとする行為に及んだのか』によって変わる。そう、『最初から、最後に吐くため息は決まっている』のだ。

こんなに退屈なことはない。始める前から結果が決まっている。自分の世界の中ではそんなことは往往にして一般的だ。

ただし、自分の生きている社会と自分の住んでいる世界が交わり、物理的に自分がいる世界の中では、始める前から結果はわかっていることはあっても、結果が決まっていることなんてない。だから慣れないうちはおどおどしてしまうけれど。

僕はイギリスに来てからというもの、そういうことを何度となく続けてきた。



南アフリカから帰ってきて、すぐにあるプロダクションから連絡があった。

ショートフィルムがあるんだけれど、興味はないかと。ただし、監督とプロデューサーはパッションのみでこの作品を形にしたいから、バジェットがない。それでも脚本とトリートメント(簡易ストーリーボードみたいなもんだ)を見てみないかと。

僕はエージェントに連絡して、今回の件はかくかくしかじかだから、直接やりとりする旨を伝えた。


レベッカは「いつでも何か必要だったら言ってね。」と言ってくれた。


僕は脚本とトリートメントに目を通す前に、監督とそのプロクションの詳細リンクをクリックしてみた。風変わりなプロダクションで、専属で数人の監督を抱えている。監督のポートフォリオを見てみる。空気を人差し指でくるくると巻き取ることができるような、ねっとりとした雰囲気の映像をとる監督だ。ただ嫌味ではない。そんなことを思いながら他にどんな監督がいてどんな作品があるのかボーッと見ていると、Roar Uthaugの名前を見つけた。

ロー・ウサーグは、ちょうど僕が南アフリカで撮影していた作品の監督だ。非常に謙虚で言葉数が少なく、スカジナビアンにしては珍しく英語に訛りがある。言葉を一つ一つ丁寧に、そして大切に相手に届けようとするタイプだ。言っていることは、基本的に正しい。

僕は鳥肌がたった。
その勢いで脚本を読み、トリートメントに目を通した。


プロダクションから、⚪︎⚪︎役をやってほしいと言われた。


僕は、丁寧に断った。その役に興味はないと。
とはいえ、結局作品には参加した。自分が興味を持った役で。



南アフリカに滞在中から、作品の内容的に、必然的に体から贅肉が落ちた。おっさんの贅肉だからポロリとうまく落ちてくれるわけではないが、カンナで木を鰹節ほど薄く削り取るように時間をかけて、落としていった。

戻ってきてからも、カンナでうすーく、うすーく鰹節ほどの薄さで丁寧に削っている。


そうやって僕から一つ、また一つといろんなものが削げ落ちて行き、痩せ細る分、大切な幹が強く太くなり、そして基礎体力がついた。

だから数週間前、僕は机の一番上の引き出しを開ける作業に取り掛かった。

いろんな香りに負けそうになったけれど、とうとう一番上の引き出しを、数センチメートルだけ開けることができた。

透明の水飴のような気体が飛び出し、僕は慌てず引き出しを閉めた。


まずはこれで十分だ。


人生には後で振り返るとマイルストーンになったという出来事は多々ある。僕だって、「結局あれはこういうことだったんだ」という出来事なんてたくさんある。

ただ、今回のように現在進行形で、起こっている出来事が確実に自分のマイルストーンになるということを感じることなんて今までに無かった。だから、ユニークなのだ。

だけど、ユニークなことは、馴染むまでに時間がかかる。僕の左目の瞼が、僕の意思とは関係なくその不確かな日常生活を敏感に表現している。




さらに、南アフリカ滞在中にもう一つ大きなプロジェクトが決まっていた。先週末に終えた劇団の公演だ。(本当は事前にここでお知らせしたかったんだけど!)

作品は、2014年の旗揚げ公演で上演した作品「Napoleon's Messenger」の再演だ。



旗揚げ公演は、2幕中の後半1幕しか上演しなかった。そのため、2幕をきちんと上演するのは今回が初だったし、女優も違う。

僕らは劇団は、作家、音楽家、さらに役者二人(僕と女優)で構成されており、デバイズという手段で作品を作り上げていく。簡単に言うと、役者二人のエチュードで作家と音楽家が台本と演出を作り上げていくのだ。

久しぶりに処女作を上演することと、特異な場所で公演することもあって、かなり作品にも手を入れた。諸事情があり、稽古期間が少ない割には、とても良い出来と評価を受けた作品になり満足している。


公演の後、僕は、椅子に座り、僕と話をした。


「君、少し変わったね。」

「そうかな。」

「何か気に入らないのかい。」

「そうかもしれない。」

「何か気に入ったのかい。」

「君はどうなんだい。」

「僕は悪くない気分だ。」

「僕だって悪くない気分だ。」

「どうしてだい。」

「同じ質問を返すよ。どうしてだい。」

「呼吸の間隔が短くなったんだ。」

「肩が広がって背筋が伸びたんだ。」

「足の指が広げるのに似ているかい。」

「うん、しかもそれが綺麗に同心円状に広がったときの気分とね。」

「ただ、土踏まずをしっかりと地につける気持ちでいよう。」

「ただ、内股にはならないように。」

「まだまだ体は潤ってるみたいだな。」

「ねっとりに、とりこまれたから。」

「取り込まれたのか。」

「いや、うまく取り込めたんだと思う。」

「じゃぁ、土踏まずはしっかりついてるってことだ。」

「視野もよくなったろう。」

「近眼は治らないけどね。」

「それは、あまり重要じゃない。」


そういって僕らはお互いを笑った。気がつくと相方の役者が不思議そうに僕を眺めていて、一言「いくよ。」と言った。


その後僕らは、打ち上げに出かけた。

公演の後の打ち上げは、なぜかモノマネ大会になった。僕は音楽家が人差し指と親指で顎を触り、唇を少し尖らせ眉をひそめるモノマネをした。少しウケた。

音楽家は、作家の声の出る引き笑いをモノマネした。真冬に長い階段に雪がつもり、翌日に晴れて少し溶けかたまった上をソリで一気に駆け下りるような軽快で角のある太めの笑い声だ。よくウケた。

そして、女優は、僕からメガネと帽子をとり、ただかぶった。

非常にウケた。(不公平だ)

Leoのモノマネ by Tania


そうやって今年に入って、絶え間なく続いていた物語がひとところ落ち着いた。


僕は、何かの役が自分の中にあるとき・・・、んー、的確じゃないな。何かの役を自分の中で自立させようとするとき・・・、んー、これも的確じゃない。何かの役が自分と・・・、言葉ではうまく説明でしたくないきないので、まー、とりあえず仕事しているときということで。

僕は仕事してる期間は、物語の中に文字通り『いる』、息づいて『いる』ので、物語を読むことができない。

読書が大好きなんだけれど、この仕事をしている期間中ってのは読める本が限られてくる。限られてくるっていうか、排他的に小説が読めなくなる。小説の物語を読むことができなくなってしまう。

だから物語を読める時期がくると、一つの区切りが着いたことを身をもって感じる。そして物語を読んでいるときは、丁寧にチューニングをしている気がする。嬉しくて仕方がない。



そうして、最近気づいたことだけど、こうやってブログを書くことも『できる時』と『できない時』があるみたい。

結局の所、僕が携われることができる物語は、どこまでいっても一時に一つのようだ。


さしずめブログを書くことは、短編の物語に触れているような気分になる。ここで始まり、ここで完結する。今このブログを書いているほぼ1日(結構かかるのよ、ホント。)、とても楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございます。だから、



僕は元気でやってるよ。


みんな元気でやってけよ。


夕焼けで和んでもらって





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