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Leo Ashizawaの「元気でやってるよ。」「元気でやってけよ。」

自分がやりたいことを少しでも伝えるには、自分自身の中でそれなりに土台が必要です。僕の土台はこのメッセージ。これまでお世話になった人へ。これからお世話になるであろう人へ。ロンドンで活動する役者、Leo Ashizawaからの便り。

身体をめぐる冒険


断食をした。







突然思い立ったわけではない。


去年久しぶりに、お世話になっている僕の名づけ親でもある大先輩の役者さんともう一人の先輩の役者さんと3人で芝居を観に行く機会があった。芝居を見る前に、少し腹ごしらえをしようということで、劇場からそう遠くないベトナム料理屋で飯を食べることにした。

「かなり昔に来たんですけど、ここは美味しいですよ。でもBYOBなんですよ(BYOB:Bring your own bottle)お酒は持込)」

そういって、わざわざ向かいにある酒屋でビールを買っていったら、BYOBは遥か昔にやめて今は、アルコールを出していると言われた。最終的に、そのビールは、劇場まで持って行って待合で飲みつくした。

大先輩は料理を食べながら、最近は酒を飲む量も、ご飯を食べる量も減ったなぁと話しながら、若いときに1週間断食をしたという話を聞いた。もう一人の先輩の役者さんは、すでに断食の話を聞いたことがあったらしく、「あぁ、その話ね。」的な様子で話を聞いていた。



「断食後は、胃が赤ん坊のようになっているから、重湯から始めるんだ。またその重湯が旨いんだよ。」

「普通に、仕事してたな。劇団の舞台の撤収で重たいもの運んでたし。」

「駅のプラットフォームに出るための階段を見るとゾッとするんだよ。断食中は瞬発力がないからな。」



大先輩が僕の質問に対して答えてくれた内容や語りを断片的に覚えているが、会話の一部始終を覚えているわけではない。



「何か違う感覚を味わいたかったんだろうな。」



その言葉は、時間が経っても僕の中で言葉の響きが大きくなったり小さくなったりしながら、ずっと反芻していたんだろう。ある種の言葉と言うのは、耳を通して振動に変換され脳に届くというプロセスを無視し、突拍子も無く身体全体で吸収されることがある。


そしてそういう言葉は、何かある度に骨や筋肉に反響し、思考の一部として何らかをもとめて表出してくる。


去年の夏頃に聞いてからその言葉をしばらく忘れていたような気がするが、2019年という激動の一年の始まりと共に、地球が震え、世界が震え、社会が震え、その振動を受けた僕の身体から表出してきた。

いったん現れたその言葉は僕を覆いつくし、僕を飲み込んでいった。




はじまりの音が聞こえてくる




ちょうど1月の末に1週間ほど休みがとれそうだった。
本来であれば息抜きに旅行でも行きたいところだったが、色々と都合が合わなかったのでこの期間で断食を決行しようと決めた。

1週間の断食には1週間の準備期間と1週間の回復期間が必要とされている。
つまり、3週間は食をコントロールできる環境にいる必要がある。


もちろん、1週間も食を取らないので、身体と相談し危険だった場合は、中止しても構わないくらいの心持ちでいた。それに、もし急遽仕事が入った場合は、いつでも断食の決行を中止したり、途中で辞めるくらいの気持ちで、あまり意固地にはならず取り組むことにした。


まずは情報を集めようと、インターネットで色んな情報を調べてみるが、なかなか良いものにめぐり合えない。

どうやら断食は、美容や健康、ダイエットの一環として流行っているようで固形のものを食べない断食だったり(ジュースは可)、断食中でも代謝を活性化するために特別な酵素ドリンクを取る断食だったり、ハーブティーは飲んでも良い断食だったり様々な種類の断食情報が氾濫していた。


英語でfasting(ファスティング)と入力し検索してみるも、英語で得る情報も僕の身体にきちんと合う類のものを見つけるのは難しかった。
ちなみに、ファスティングという英語の言葉の日本語訳は、「断食」または「絶食」だ。断食と絶食で別の言葉があるわけではない。


僕は勝手に1日以下の短い期間、食さないことを「絶食」といい、それ以上の長い期間を「断食」というのだと思っていた。なんだか、検査前に8時間絶食して下さいとは言っても、「俺、2日間絶食したわ」とは言わない気がしたからだ。


というわけで、(今になって)調べてみると、「絶食は食を断つことそのものの行為」であり、断食は、そこに「宗教的意図や苦行・修練的意図が加わる」ことで断食と言う言葉になるらしい。



確かに僕が望んでいる「食を断つ」行為は、修練的意図がある。だから、断食だったわけだ。

(練習や訓練と修行も英語ではtraining以外に厳密に分ける言葉がないから、コンテクストで判断するしかないのも、僕の行為を英語で説明するには不便だった。)


話がそれたけど、実際インターネットで得ることができる多くの断食情報は、僕の望むところの断食ではなかったため(あぁいう類の断食は絶食なんじゃないかと思う)、大先輩に電話で詳しく話を聞き、自分なりに情報の取捨選択をした上で、準備期間に望んだ。


準備期間に入るにあたって、自分でルールを決めた。


断食期間の1週間は水と塩のみで過ごすこと。それから携帯電話を一切触らないという制約を自分に課した。
仕事の都合上パソコンでのメールと電話での通話は制約から除外した。

また、シャンプーだったり、石鹸だったり、皮膚を経由して吸収するものもとらないことにした。
つまりは、水と空気と塩以外は、身体に入れないのだ。



制約と誓約により、効果は倍増する・・・はず。



食べる種類のものさえ気をつければ、準備期間はフェイドインで回復期間はフェイドアウトのようなものだ。できるだけシームレスなトランジションを意識すればいい。


準備期間開始の前日の夜、昨年の夏頃に撮影したBBCの老舗ドラマ「サイレント・ウィットネス」の僕が出演するエピソードがあった。最後の晩餐のようにゆっくり酒を飲みながら鑑賞し、少しセンチメンタルな気持ちになった。


準備期間の初日は早々と過ぎ2日目には、早速仕事があった。長時間の声の収録だ。活舌と声のボリュームや繊細さを意識するには、エネルギーが足りず、意識的に普段の倍くらい意識した表現が必要だったが、乗り切った。汗もあまり出なかった。




その晩、高校時代の友達から突然連絡があった。




「出張でドイツに来るからついでにイギリスに行くわ。土曜泊めてや。」




もちろん、答えはイエスだ。ただ、その日は断食開始初日だ。せっかく何年かぶりにイギリスで再会するのに杯を交わすこともできないなんてなんてこった、と心が折れそうになったが、そこは強靭な意志で(俺本当は意思めっさ弱いんだよね・・・)、断食中だから、いつもみたいに飲めないことと食べれないことを簡単に伝えた。



「何か大変そうやな。」という返事が一言返ってきた。



断食開始初日に向けて食べる量を減らしていく。胃がすでに小さくなっていて、断食前日の昼に食べたスープを完食することができなかった。そして、あたかもすでに断食が始まっているような断食開始前夜を過ごし、友達の来る断食初日を迎えた。




断食初日の朝、目がさめるといつもの癖で朝食は何を食べようか考えてしまう。そして、「おい、断食が始まったんだぞ」と自分を納得させる。
ところが、起きてから早速メシのことしか考えられない。

M曰く、僕は大食いで食いしん坊だ。(食いしん坊ってのはなんだか食に対して、意地汚い人を表す表現っぽいけど)そんな僕が、断食をするなんぞは、空からカエルが降るくらい、奇天烈な行為であり、断食を始めるまで実際自分自身でも現実感が湧かなかった。


「胃に何か入ってきて欲しいよぅ」っていう絶望と悲哀に満ちた泣き声が朝から木霊する。


そんなことばかりに耳を澄ましていても仕方が無いし、代謝を落とさないために適度な運動が必要なので、朝から腹のなる音を聞きながらヨガで身体をほぐした。その間は少しメシのことは忘れることが出来るが、結局はその後余計に腹が減った。


夕方になって、友達を最寄り駅まで迎えにいき、互いの背中をたたき合いながら、再会を祝し家に戻る路を歩きがてらお互いの近況を話し合った。


彼は、インドに支店を立ち上げているらしく、今日もインドからドイツに入りそのまま飛行機を乗り換えて、イギリスに来たということだった。2週間インド、2週間日本を繰り返しているようだ。家族は、日本に住んでいる。「カレー系のスパイスにあきるくらいインドに行っている」という一言が、どれほど彼がインドにどっぷりつかっているかを十分説明していた。


僕の腹は、そんなカレーのスパイスという言葉にすら敏感に反応する。


そういえば、1月の頭に高校時代の別の友達(同じサッカー部)が、イギリスに奥さんと観光で来ていたから飲みに行った。彼も東南アジアの出資プロジェクトを担当しているらしく、ベトナム人やタイ人、カンボジア人の東南アジア各国の人々の気質や仕事に対する姿勢の違いなどを説明してくれて、とても面白かったのを思い出した。

そして、あの時はパブでビールを4杯も5杯も飲みながら語ったことも思い出し、心が折れそうになった。



友達を連れて家に着いた後、早速頼んでいた僕の大好きなお土産のおかきと梅酒を出してくれて、さらに心が折れそうになった。僕はおかきを丁寧に押入れにしまい、Mに梅酒を献上した。



僕らはしばらくテーブルを囲んで話を続けた。

トゥイグルスという焼き醤油味のようなおかしと、ポテトチップを摘みに、友達がクローネンバーグ(僕が好きなフランス産のビール)を飲み、喉仏が上下しつつ喉越しを楽しんでいるのを目が飛び出すくらいジッ(血の涙を流して黒炎を出せるくらい)と見つつ、僕はフランス・ブリタニー地方ケルティック産の天然(海)塩をなめた。

海の味が舌に広がった。耳を澄ませば、漣が聞こえるような気がする。




僕の身体は常に空腹を訴えていたが、Mと友達も腹が減ってきたらしく、僕らは近所のパブへ夜飯を食べに行くことにした。

外食に飢えていたMは非常に喜んでいた。普通に飢えている僕も、同意した。



さて、イギリス文化について語るときに、真っ先に僕はパブを語る。パブはイギリスだ(パブについてはまた別の機会に語ることにする)。

パブは田舎にも都会にも、どこにでも必ずある。選びさえしなければ、パブが見つからないなんてことは絶対に起こらない。日本のコンビニ以上にパブは簡単に見つかる。おそらく、数も多いかもしれない。

老いも若きも男も女も犬も猫も生きとし生けるものすべてが、みんなウェルカムで、飲んだり食ったり出来る場所だ。ちなみに僕の家から徒歩10分圏内に、パブは11件はある。


僕らは、近所のパブの中でも料理も美味しくて少しゆっくりできる距離的には家から3番目に近いパブを選んだ。



行きなれたパブのドアをいつも通り開ける時に、いつも「今日は何のビールを飲もうかな。何を食べようかな」と考えているんだな、ということに気がついた。(今思えばこれは、この断食期間中に得た一つの感覚を意識するきっかけに出来事だったと思う。無意識の思考によって僕らの頭の中は空き時間というものを作ろうとしない。)


パブに入り、席に座り友達とMはディナーのメニューを眺めている。


友達は、グリルしたチキンスプリーム(皮無しの鶏胸肉)にブロッコリとポテト、キャロットをボイルしたものに、クリームソースをかけた料理を注文し、Mは、シードやスパイスをふんだんに塗したロースト・バターナットスクウォッシュに、同様にローストした野菜がサイドについている料理を注文した。僕は、少し贅沢にイギリス北部ハロゲートというところで湧く、スパークリングウォーターを注文した。



店員が二人の料理を持ってくる。一緒に持ってきたスパークリングウォーターをきちんと僕の目の前に置いてくれた。

僕はふと、店員さんは二人が食事をしている横で、炭酸水を飲む僕をどう思うだろうと思いながら、せっかくグラスに入れてくれた輪切りレモンを、Mのコーラに入れた。

友達は、グラスが少し曇っていることでしっかり冷えていることがわかる白ワインを頼んでいた。「そうだ、チキンだもんな、白が合うよ。」僕の口から音が漏れた。


二人が食べている姿を目玉をこぼしそうになりながら見つめ、自宅に帰ってからもツマミを旨そうに食べながらワインを飲む友達の手元と口元ばかりに目が行きながら、話しを続けた。




「それが何か分からないけど、なんだか違う感覚を味わいたくて」




と断食の理由を、僕も大先輩のように説明したが、僕の言葉は、その時はあまり響かなかった。




翌朝、Mが用意した旨そうな朝食と、グアテマラのコーヒー豆をひいて僕がつくったドリップコーヒーを友達とMは上品に食べて、友達は次の目的地へと出発した。

いつもなら寝ている週末の朝の時間に友達は出発したので、その後予定のない日曜日が丸一日、ポンと放り出された。何を思ったのか、大掃除ができていなかったキッチンを僕は片付けだし、Mを巻き込み一日中掛けて綺麗にした。お腹はしきりに鳴っていて、すぐに息が切れた。




2日目までは、とにかくご飯のことを考えたり、いつも以上に睡眠が必要で、身体に痛みが出たり、基本的には倦怠感に襲われていて、これ以上続けることができるのかという思いが何度も、よぎった。

ケルティック産の天然塩を白湯に入れて飲むと海の味がしたので、それが唯一僕の心をどこかへ連れて行ってくれた。3日目になると、まだ腹は減るし、身体が非常に弱っているように感じるが、徐々に頭がとてもクリアになり出した。

いつもの椅子に座り、マックス・リヒターが再構成したビバルディの「四季」のレコードを聞いていると、複雑に重なり合う楽器とその音の一つ一つを紐解けるような不思議な感覚に陥った。さらに五感が鋭くなるのを実感しだした。


そして4日目を迎えた朝、突然空腹を感じなくなった。そして、身体が軽くなり、五感が冴えているのがはっきりわかった。五感の中でも嗅覚は異様に敏感になる。そして気がつく。




自分が臭い。



とてつもなく臭い。



Mからは息が臭くなったといわれていたが、ついに自分でも自分が発する匂いが臭いことがわかる。
いつもの発声練習をした後の部屋が嗅いだことが無いような匂いで充満している。


鎧から目視できるほどの魔闘気が溢れているカイオウよろしく、僕の皮膚という薄っぺらい鎧と筋肉の隙間から、えもすれば目視できるのではないかと言う何かが溢れてきている。そして、繰り返すがそれが臭い。


この何かとは、ケトン体と呼ばれているものだ。食べない期間が続くとケトン臭という飢餓臭を身体が発するようになるのだ。(もちろん身体の悪いものが排泄されているのもある。)


体外からエネルギーを得ることができない体は、脂肪を燃焼し始める。脂肪が燃焼され脂肪酸に分解され、脳にとってグルコース以外の唯一のエネルギーとなるケトン体というものを生成する。そのケトン体はとにかく臭いのだ。

その臭いに僕は包まれる。自分にオーラと呼ばれるものがあるとすると、オーラが届く範囲は、すべてケトン臭だ。これが、臭い。



「口臭は水を飲んで防ごう」っていうから水をたくさん飲む。
(どちらにせよ断食中は水をいっぱい飲まないと駄目だ)


水をたくさん飲んでも臭い。


口臭ではないので、口を閉じて鼻から息を出しても臭い。


とにかく、もうヴァニラ・アイスも驚くほどの亜空の瘴気を発している。
これでは、身体が透明になってもすぐ場所がばれてしまう。イギーの最後のいたちっぺで巻き上げられた砂埃でポルナレフが居場所を特定する必要もないくらい。



それにしても、これは大先輩も話してくれなかったことだった。誤算だ。しかも、断食4日目は先日の声の収録の続きがあったので、イギリスでは一度も使ったことのないマスクを取り出し、風邪を引いているふりをして現場と収録をやりすごした。部屋のリビングですら、発声練習の後は臭くなるのだ。

僕の後に収録ブースを使用した人は、この部屋でいったい何が起こったのか不思議に思ったことだろう。・・・ごめんなさい。


それ以降は、仕事の予定がとりあえずは入っていなくて正直なところホッとした。
(仕事がなくてホッとすることなんて、この時を除いて今までに無かったと思う。)



もちろん、強くなる感覚は嗅覚だけじゃない。

外部から得たものでエネルギーを生み出す作業を止め、自分の持てるもので自分を生かそうとする働きは、外部に対する感覚をより鋭くする。

目から入ってくる情報が捉える物事の詳細が明確になり、迷子になりやすい思考迷宮が一本道になる。
無駄なことにエネルギーを使えない分、心は静かになり、一方で頭は非常にはっきりする。


ヒイ様が言っていた「曇りのない眼(まなこ)で見定める」というのは、このことだと、アカシシしかり、モーターバイクに跨りながら僕は感じだ。「風が頬を撫でる」という表現が、どれほど的確かということも感じだ。



僕は近眼だが、世界の色と輪郭が眼鏡をしていても、していなくてもはっきりと浮き彫りになってくる。

いつもは騒音に感じる工事現場の音は、人の生命の鼓動の延長線上として聞こえ始め、時間が突然ゆっくりと流れ出す。



食べるたいと思い、何を食べるか考え、料理し、食べ、後片付けをするという行為を普段は1日2回、ないしは3回行っているわけだが、このプロセスが完全に0になることで、どれだけの時間が生み出されるかということにも驚いた。

また、無駄なエネルギーを消費できないため、時間をかけてゆっくり何事も丁寧にするという習慣がつく。

そして面倒くさいというネガティブな感情は、それだけで疲労を産んでしまうため、必然的に面倒くさいと思わなくなる。

二度手間にならないようにやるべきことをきちんとするようになるため、遥か昔に置き去りにしてきた「丁寧」という言葉も、僕の行動の端々に現れてきた。


そして、そういうものは、実は性格というものではなく、癖(クセ)であるということに気がつく。

本来自分に備わっていない、効率や利便性に基づき後天的に得たクセというものは、粘着力を失いバラバラとはがれていく。


例えば自分の目の前で自分の気に入らない出来事が起きたときに、「腹が立つ」と思う、または独り言のように口に出る。実は、腹が立つと思ったが僕の感情は別に腹が立っていない。別に腹が立つような感情が全身から湧き上がって腹が立っているわけではない。ただ言葉が口から出るのだ、そして出てきた言葉が身体を覆いつくし、その感情を全身から集めてくる指令が下される。そこに感情のクセというものが存在した。

これも、今まで生きてきた中で社会の中での自分を正当化するためのクセ、自尊心を保つために後天的に取得したクセだ。



『長い間光が差し込んでいない部屋がある。室内の壁には部屋の雰囲気、密度と尊厳を保つために空気中から集めたチリが何重もの層になって張り付いている。おかげで光があまり入らない部屋の内側が多彩な色で装飾されているように見える。

その部屋の窓を観音開きで開け放ち、カーテンの埃を払う。溢れんばかりの太陽の光が大きな窓から部屋の中に差し込む。しばらくすると、何重もの層になった壁は、一枚また一枚と光を受けはがれていく。

そして、幾重にも重なった壁の中から絵画が顔を出す。その家の本来の物語だ。』



そうやって、実際に一般的にはデトックスと呼ばれる身体の洗浄と精神の洗浄が4日目から7日目を通して行われた。




紡がれるもの






僕はデトックスを目的に断食をしたわけではないので、回復期初日の朝食は儀式的に重湯を選んだ。
(デトックスを目的にした場合、もっと効果的な食事方法があるようだ。)


全身に味がいきわたる。

1週間何も食べていない為、胃や腸などの消化器官にまつわる臓器は、7日間の(24時間計算すると厳密には8日間)ホリデーに出かけていたわけだ。胃なんて赤子のそれのようになっている。僕が生まれてから一度も、休んだことがない消化器官に対する感謝があふれる。

身体に重湯が入った瞬間に、お麩を投げ入れた池の鯉が一斉にそこに集まるように、臓器のエネルギーが一つの方向に向かって集結するのを感じる。


それ以降食べるもの全ての味が、舌の上で踊る。余韻が口の中にずっと広がり続ける。
非常にデリケートな味覚は、素材の味をきちんととらえる。

回復期間の1週間は、そうやって少しずつ休んでいた消化器官の身体的ウォームアップすることに、精神的に食するという概念を再構築していくことに費やされる。


そんな食事の中でも僕が一番楽しみにしていたのは、お酒だった。ビールから順番に初めて、多岐に渡るお酒の味を感じていくことを楽しみにしていた。


待ちに待った当日、やはりせっかくの一杯目は、缶や瓶ではなく生がよろしかった。

そこで、Mを誘ってパブにでかけることにした。さすがに僕の消化器官も6歳児くらいまで成長したとはいえ、空っぽの胃にビールを流し込むのは恐ろしかったので、家で食事をしてからパブに行くことにした。

わざわざ家で食事をしてからパブに飲みに行くというのは、お酒をあまり飲めないMとしては、いささか面倒くさそうだったが、そこは無理をいって付き合ってもらった。


僕らは家から一番近くそして雰囲気も良いパブを選んだ。

パブのドアを開ける時には、いつものと同じようにどのビールを飲むかを自動的に考えていた。少し違うのは、一杯飲むか量を減らして飲むかをひたすら考えていたことだった。


パブに入り一番最初に目に飛び込んできたチェコのビール、スターロップラーメンを頼んだ。
やっぱり最初はピルスナー/ラガーだろう。


パブのお兄さんが、泡をいれずにすりきり一杯までビールを注いでくれる。イギリスの単位1パイントは568ml。日本の生中は500mlもないと思うので、生大と生中の間だ。泡も入れない黄金色の飲み物が僕の前にそびえたつ。僕は、Mが頼んだレモネードと一緒に、こぼれないように丁寧にグラスをテーブルに運んだ。


両手をこすり、ついに一口目のビールを身体に滑り込ます。感動が湧き上がるのを僕は待つ・・・。



「・・・」



「・・・・・・!」



「なんてこった。・・・苦いだけだ。」僕の口から音が漏れる。



まったくもって旨くもない。ただ、単に苦味が舌の上に残る。少し鉄っぽい味までする。
そして次第にその苦味が口全体に余韻のように広がる。


僕は瞬間的にちょうど5歳、6歳の頃、父親の飲むキリンラガービールを一口勝手に飲み非常にまずかった記憶を思いだした。お酒を飲み始めた頃、チューハイばかり飲んでいたのは、ビールを特に旨いと思わなかったからだ。敏感になった僕の舌は、本当のセンセーションを思い出す。


ただ、酔いはまわらない。


それから少しずつ、一口一口を味わうように、ビールを飲む。
やはり苦味はずっと残るが、飲めば飲むほど味が変わってくる。

そして、1パイントのビールを飲み終わる頃には、3週間前まで飲んでいた僕のビールの記憶が、本来の舌の感覚を上書きしてしまった。



「ビールは旨い。」と、さらに僕の口から漏れるまでに1時間もかからなかった。



つまり、記憶が身体の感覚を押さえ込んでしまうのだ。なんてこった。


仄かに香った青春は、1時間足らずという短い時間で完全に過ぎ去ってしまった。

残ったものは、空のグラスともう少し飲みたいという衝動だけだ。これもまた、結局は保存された記憶により上書きされた架空の事実なのだ。





人は、身体と精神の間でバランスをとっている。そして、この二つは状況に応じてどちらがイニシアチブをとる。
普段の生活の中では、精神が確実に、そして圧倒的なイニシアチブをとっている。ただ、断食の期間中は、身体がその主権をとり戻す、精神が身体によってたくさんのことを学ぶ。そこでようやく身体と精神のバランスが平衡になる。今まで僕が平衡だと思っていた感覚は、それでも精神がかなり優位を占めていたんだということに気がついた。


人の肉体は亡びてしまうため、精神優位論が基本的には広く受け入れられる。でも本当は逆なんじゃないかと思う。身体が優位になったときに初めて、実は人が次の段階へと進めるのかもしれない。しっかりと目をつぶり、丁寧に絡み合った糸を紐解くと、そこには、非常にシンプルに身体と精神がすっと背筋を伸ばして立っているだけだ。



最初に食べた重湯




『「小林秀雄はゲーテの言葉を借りて、才能とは困難を見つけ出す努力のことだと言った。」』だそうだ。




1週間、通話以外携帯電話(スマートフォン)を一切触らなかった。


僕らの生活の中にはもはや外部臓器といっても差障りがない存在としてスマートフォンが存在する。


行動と行動の隙間にスマートフォンが常に顔を出す。集中力を失わせ、無為に時間を経過させる。受動的に使用しているにも関わらず、あたかも自分が能動的に使用しているような錯覚を起す。どれだけ正当化しようとしても、僕らがスマートフォンを使用する頻度とその価値は絶対に等価ではない。


そうしてスマートフォンは、気がつかない間に僕らをどこにも進むことができない忘却の彼方に送り込む。


断食を始めた最初の頃は、やはりクセのように少し時間があると、ニュースをアプリで観ようとかソーシャルネットワークを触ってみようとするクセが顔を出し、意識的にそれを押さえ込もうとする必要があった。しかし、時間が過ぎるとそれもさしてたいしたことではなくなる。その間もメッセージは贈られてきていたが、至急連絡を取りたい人は、電話してくるはずだと思っていた。実際にそうだったし。




無駄なものが削り落とされた一日という時間は、体感時間としての24時間をしっかりと刻む。

思考の隙間に空き時間として空虚が顔を出すことに対しても恐れなくなり、能動的に発生する自分の意志で思考したい事象をしっかりと考えることが出来る。


「曇りない眼」で足元を見ると、普段なら決して観ることができない擬態した大きくて非常に重そうな鎖が僕の左足にまきついているのに気がついた。「耳を澄せば」歩くたびにその重たい鎖がシャリシャリと立てる音が聞こえる。鎖の摩擦で傷ついた足首から少し血が流れていることが「ニオイ」でわかる。かがみこんで、巻きついた鎖を丁寧に外すと、その鎖はまるで生きている蛇のように、社会の彼方へと引き下がっていく。そして僕の身体は3センチメートルほど、地面から浮きあがる。実は、本当の大地は、実際の僕らが踏みしめている足元の3センチメートル上にある。「本当」の大地と「一般」の大地の隙間は、ぬかるんでいる。滑りもするし、足をとられることもある。



そして、僕らは無機物であろうが有機物であろうが、そこで繋がっているという事実を身体で受け止める。



そうやって解放された精神は、真理に基づいた思考を開始する。思考回路の中で、一つのドアを開けるとまた自然と別のドアが現れて、そのドアを開けるとさらに別のドアが現れて・・・というプロセスが驚くほどシンプルに筋道だって行われる。綿毛のようにたくさんの言葉が宙に浮き、現れては消える。なるほど言葉は、非常に肉体的である。



人が何かをする場合、皮膚の裏側にみえないように染み息を潜めている言葉が、何かのきっかけを得て表出するときだ。言葉を口に出すことでそれを召喚することもできるし、にじみ出る汗のように、必然的に流れ出すこともある。






「それが何だかわからないが、何か違う感覚を味わいたくて。」






初めて、断食の感想を人に話した時に、その言葉はしっかりと僕の皮膚の裏側に染みこむように戻っていった。









『僕は、元気でやってるよ。』

『みんなも元気でやってけよ。』










断食が完全に終了したときに、お礼を兼ねて大先輩に連絡した。


「そうかやりきったか。エライ。」


「ありがとうございます。本当に良い経験をさせてもらいました。」


「そうかそうか、本当に良かったです。」


「でも、断食中って身体が臭くなるってのがキツイかったです。」


「そうだぜ、あれ言わなかったっけ。すごく臭くなるんだよ。あれはキツイよな。」


「え、言わなかったですよ。」


「まぁ、色んなものが出るんだよ。」


確かに色んなものが出た3週間だった。はやく体重を戻さないと。



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